以前英語のライム(Rhyme/韻)についての記事を書いた時に日本では学校でライムを習ってないせいで、最近の日本語ライムについて今一番理解し使いこなしているのはミュージシャンでありほとんどの人は気がついいてないってことを書きました。
その具体例として今回はお子様達にもパプリカ(Eテレで流れてる)で大人気な米津玄師さんのフラミンゴを取り上げようと思います。
え、ライムってHIP POP特有のものじゃないの?って思ったそこのあなたにこそ読んでほしい。
その前におさらい
- 広義のライム(韻)はHIP popで多用されるずっと以前から英語以外の言語でも存在している
- ライム(韻)は音の文化であり音楽ととても親和性がある
- 速度や強弱などの言い方(フロウ)次第で韻になるので歌詞の文字じゃなく音を聞こう
- 頭韻(アリタレーション)脚韻(ライム)以外にも韻の種類はいっぱいあるよ
です。
頭韻?脚韻? なにそれ?って方はまずこちらを読んでから戻ってきてね
先日Mother Goose(Nursery Rhymes)の重要性についての記事を書きました。 Mother Goos…
昔から日本人にとても馴染みがある音韻の形式とは?
Hip popと共に英語圏からrhyme文化が入ってきて音楽界での日本語によるライムが活発になってきました。
ではそれ以前は日本語でのライムがなく、日本人が韻に全く触れてこなかったかというと実はそんなことはありません。
ただし頭韻(アリタレーション)や脚韻(ライミング)ではない韻なのですよ。
そして今から説明するのと同じ韻の踏み方をフラミンゴではやっているので、ちょっと長くなりますが説明にしばらくお付き合いください。
古い歌は歌詞が変容してしまっていることがままあります。字ではなくて口伝で伝わったので覚え違いもありますが、「これは縁起が悪いから」とか「誰々に対しては失礼になるから」とか後世の後付けの理由で意図的に変更されることも往々にしてあったようです。
そんな中、原型がとどめやすいのは宗教行事のような伝統を重んじるものなのかなと思います。
ということで以下のあたりを研究対象にしてみます。
祝詞(のりと)のなかにあるライム
祝詞(のりと)は神道のお祈りです。
やまとことばと言われる古くからの言葉で、作られています。
文字ではなく口伝によって音として伝えられ、韻を残した非常に古くからの歌の例としてここではとりあげたいと思います。
掛けまくも畏き
(今拝んでいる神社名・祭神名)
神社の大前を
拝み奉りて
恐み恐み白く
大神等の広き厚き御恵を
辱み奉り
高き尊き神教のまにまに
天皇を仰ぎ奉り
直き正しき真心もちて
誠の道に違ふことなく
負ひ持つ業に励ましめ給ひ
家門高く身健かに
世のため人のために尽くさしめ給へと
恐かしこみ恐かしこも白まをす
こちらは神社拝詞といってどこかの神社にお参りしたときに参拝者が唱えるもの。
昔は識字率が低くほぼ口伝(口頭)で伝えられたであろうものです。
- かしこみかしこみ
- もろもろ
- ことのごとく
- まにまに
など同じ音セットの繰り返し
- たかき とうとき
- よのため ひとのため
- あまつつみ くにつつみ
など隣接箇所で韻を踏んでいるのが確認できます。
「ますます」「かえすがえすも」「だんだん」「ゆるゆる」などなど強調するために音を重ねる重ね言葉が日本語にはほんとに多いのですが、それ以外でも重ねをつくりだしている傾向が高いことがみてとれるはずです。
神主さんはラップとかしないんですか?
他の祝詞でもいいので神社に行った時とか神主さんの祝詞がどういう音で構成されてるか聞いてみてください。
聞いてて気持ちいい人はなんかホーミーみたいに高音と低音両方で同時発声してる感じで、なんかむしろボーカロイドっぽさがあります。
というわけで発音を正式に継承しているであろう人の声じゃなくてもうしわけないんですが初音ミクというボーカロイド(音声ソフト)にうたわせてる曲をはっときます。
お経はライム
日本人に馴染み深く一番身近な音韻が仏教のお経かなと思います。
これは韻を踏みまくっていることが結構知られていて、日本語hip popラップの歌詞にも取り入れられていたりします。
若手のお坊さんがテクノ調にした般若心経もありますので、一回純粋に音楽として聞いてみてください。
内容の意味はわからなくても、声がハモっているところとか聞いてて気持ちいいですよね。
般若心経からちょっとだけ抜き書きしてみます
摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
M A K A H A N N Y A H A R A M I T A S H I N G Y O U
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)
K A N Z I Z A I B O S A T S U
行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
G Y O U Z I N H A N N Y A H A R A M I T T A Z I
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)
S Y O U K E N G O U N K A I K U
色不異空 空不異色(しきふいくう くうふいしき)
S I K I H U I K U U K U U H U I S I K I
色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)
S I K I S O K U Z E K U U K U U S O K U Z E S I K I
母音だけでいうと前半はAで後半はUとIの連続。
子音を考えると前半はN(Mも含む)で後半はK、全体的にS(Zも含む)が特徴的ですね。
※日本語だと「さ/ざ」「か/が」などの濁音「む/ん」は類似の範疇です
これは元々中国では畳韻(じょういん)と言って「艱難(かんなん)」「滅裂(めつれつ)」など同じ母音の漢字二文字で韻になる熟語を作っていました。同じ韻を使う言葉を並べる詩も作られていましたし、それがお経の中でもいっぱい使われているわけです。
中国語由来の言葉をいっぱいもつ日本語では意図して韻を作ろうとしなくても「内外(ないがい)」とか「経済(けいざい)」とか日本語は実はとても短い韻になりやすいんですよ。
一方日本で発生した仏教宗派だと、読経で用いるのも日本で成立した経典だったりするのですが同じ音が並ぶように節で調整していたりします。例えば浄土真宗の場合読経で一番よく唱えられるのが南無阿弥陀仏なのですが実際の発音は
NA A MO A A MI DA A A N BU
みたいに一字を分割して発音して母音Aを増やす。そしてA以外は弱く発音しています。
ほかにもNOはNO Uと分割してUの韻をつくるなど、ヒップホップでいうところのフロウで韻をやってる。
こんな風に母音を続けて韻を踏むのを類韻(母音韻、Assonance)といって、英語の古い詩などでも見られます。
探してみたらあったよ、浄土真宗の現役お坊さんユニット
これはお二人ですけど母音による韻って法要とかで大人数でハモってると気持ちいいんですよね。
日本語には元々別の韻があったから脚韻・頭韻が定着しなかっのでは
Hip popブームがやってくる以前、日本語で頭韻・脚韻によるライミングがなかった一因として、「昔の日本語がかなりゆっくり発音されていた。歌ともなると最後の一音に1分くらいかけて歌われていたので間が離れすぎていて韻としての効果がなくなる」という説があります。
確かに文(もしくは行)の頭での韻や末での脚韻をふむためにはある程度の速さがいるのですが、日本で長らく頭韻、脚韻が定着しなかったのはもっと違う理由ではないかと私は思っています。
つまり先ほど祝詞やお経の例で説明したような非常に近いところでのくりかえしの韻に慣れている日本人からすると異文化すぎた。
音楽性の違いと言うか、短い音で一つの意味になってしまう言語ならではなのかな?
日本語韻は類韻断絶時代を経て類韻に回帰してきている
あーあー川の流れのように
AAKAWANONAGARENOYOUNI
このさいしょの「あーあー」がないとAの連続がすくなくて気持ちよさ半減なわけです。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜
坂本 九さんの実際の歌い方だとこうなります
UEWOMUUITE AARUKOOYO
NAMIDAGA KOBORE NAIYOOONI
OMOIDASU HAARUNOHI
HITORI BOOCHINOYORU
AとOが綺麗な歌ですよね。
こういう歌い方(フロウ)を「こぶし」とか「ビブラート」とかいうわけですが、これ類韻のための音分割とみていいと思いますし、歌詞に「らららーらららー」みたいな意味のない音を入れちゃうのもその一種でしょう。日本人はうたってて気持ちよくなるところをさぐっていくと自然と類韻しちゃう。
昭和くらいまではそっちが主流だったといってもいい。
ところが洋楽の影響で、歌の合間に楽器を入れた演奏からメロディラインがずっとなっているところに人の声を重ねる歌の手法に変わったのです。
人間の声が一番目立つ音ではなくなって、演奏重視時代にはいってから若者に支持された歌ではこの種の韻はほぼみられなくなっていきます。
TVやラジオは一人一台時代にはいり、核家族化がすすみ家庭内で過去の歌が共有されることも少なくなりました。
つまり若者は類韻のある歌をあまり聞いて育っていない。
一方Hip hopから発生した新しい日本語韻はこれとは全く違って、英語での韻の踏み方をお手本に出発しました。
もちろん英語の場合母音+子音+母音で一つの音節(例外もあるけど)が日本語だと子音+母音が一つの音節なので全く同じことはできないんですけどね。
例えば「深みが無い」「ふがいがない」「つまりダサい」
FU KA MI GA NA I
FU GA I GA NA I
TU MA RI DA SA I
「うあいああい」母音6音を揃えてるのです。
これはこれで面白いんだけど、長い音で韻を踏み慣れてくるとこういう韻以外は韻として認めないみたいな。「もう3音以下はライムって呼ぶな」「いかに別々の言葉で韻を踏むか、同じことしか言えないのはカッコ悪い」、子音までそろってしまうと「それはただのダジャレ」と初期の日本語ライムは稚拙だと全否定な時代がありました。
ところがさらに日本語ライムになれてきて、改行位置など関係なくものすごく短いスパンで韻を詰め込みだしたことによって自然と類韻に近づいてきたんですよね。あらゆる言葉でライムを模索するうち重ね言葉や畳韻のある漢字熟語、日本語の古い言葉使いにも注目されるようになりました。
ラッパー達が般若心経の韻に注目し始めたのが2010年台初めくらいから。
2010年代以降のHip popでは2音以下の韻がかなり見られるようになります。かつてはただのダジャレと言われたものも多様性として改めて見直されていて、同じフレーズを何度も繰り返したりもしている。
一人ではなくグループで複数人でうたわれることも増えました。
脇から合いの手をいれたりとかね、このあたり民謡に通じるものあるよね。
初期の早く突き刺すような攻撃的なイメージのラップからメロウと呼ばれるやわらかくスローな曲調へ。そんなに韻ばっか踏まなくてもいいんじゃない?みたいな余裕というか音楽的な幅が生まれてきました。
この理由としてはお手本にしているアメリカのHip Popがそう変わってきているのとも関係があります。
ボイスパーカッションと言って人の声だけで楽器音を再現し、リズムを刻み複数人でハモる音楽が支持されてきたのもあります。
なんだかんだあってあらためて人間の声の楽器的魅力に気づいたのかもしれません。
とはいえこの辺りはすべてミュージシャンが彼らの感性で音楽的気持ちよさを追求してなんとなくでやってるのであって、類韻がどうとか音楽ルーツへの回帰とかはまったく考えてないでしょうけどね。
米津玄師さんのフラミンゴ(2018年10月リリース)でふまれている日本語韻の解説
ではやっと本題に入ります。
宵闇に 爪弾き 悲しみに 雨曝し 花曇り
枯れたまち にべもなし
侘しげに 鼻垂らし ヘラヘラり
今までの話を読んでくれてたらすぐわかりますよね?
「宵闇に」「爪弾き」「悲しみに」・・・
冒頭からそれぞれ全部Iで韻踏んでますよ。
「悲しみ」がIで終わるのに「に」を重ねているのは5音に揃えるためでしょう。
そのまま継続してIの韻が続きます。
唐紅(からくれない)の髪飾り
と「唐紅」「髪飾り」ここ頭のKAでの韻も効いてます。
あなたは(ふらふらふら)フラミンゴ
鮮やかな(ふらふらふら)フラミンゴ
踊るまま ふらふら
笑ってもう帰らない
寂しさと嫉妬ばっか残して
毎度あり 次はもっと大事にして
これも先ほどの話を読んでくれていれば「ふらふら」の連続の意図はすぐわかりますよね?
anataha あなたは
azayakana あざやかな
odorumama 踊るまま
furafurafurafurafura ふらふらふらフラ
でa韻
samisisatosittobakkanokosite 寂しさと嫉妬ばっか残して
「し」が強調されるように歌われています。次の行の「して」とも韻。
maidoari tugihamottodaijinisite 毎度あり 次はもっと大事にして
ここは「い」ですが前行から「i」が続いている。
はにかんだ ふわふわ浮かんでもうさいなら
そりゃないね もっとちゃんと話そうぜ
ちくしょうめ 吐いた唾も飲まないで
ここでDA RAとAでの韻に変わり
次の行からNE、ZE、ME、DEとE韻
しかも「そうぜ(oue)と「しょうめ(oue)」を「ないね(aie)」と「ないで(aie) 」ではさんでる。
とこんな感じで韻の塊です、この歌。
なんか中毒性を感じる、とても覚えやすい、印象に残るなどの感想はそりゃ韻をうまく使ってそうなるように作ってるんだものというお話です。
そして韻をふむことに注力すると文法破綻や意味消失がおこりがちなんですが、全体として艶っぽいストーリーが感じさせられる魅力的な歌としてまとまっています。深読みしようとすればいくらでもできるというか、謎っぽさが人を惹きつけます。
米津玄師さんのこの曲、いきなりでてきた特異点みたいな捉え方をしている人がおおいんですがそんなことは全然なくて、むしろ日本の歌への原点回帰ですし大きな音楽の主流の流れによりそっている。
ご本人のインタビューではスペインの民族音楽みたいなものをつくろうとして日本の民謡(島唄とか都々逸とか)になってきた、日本人が共感できるようなものをつくろうとしたとおっしゃってますね。
一念発起して「よし作ってやろう」という感覚があったわけではなくて。なんとなくなんですよね。最初はフォルクローレと言うか、スペインの民族音楽みたいなものが作りたかったんです。三連符でギターをジャカジャカ弾くような、ああいうエキゾチックな感じがすごくいいなと思って、そういう曲を作れないもんかと思ってやっていくうちに、気が付いたら日本の民謡にコネクトしていって。最終的には島唄とか都々逸とか、そういうものになってきた感じです。
米津さんが韻に関してどれだけ確信的にやってるかはわからないです。
「民謡みたいな感じ」としか説明ができないということは、感覚のみでやってる可能性もおおいにありますよね・・・。
パプリカの歌詞とか「パプリカ」「晴れた」「ハレルヤ」で頭韻してて、これが音の感覚のみで作ってたとしたらすごいセンスだと思う。
とはいえ、色んなもののながれを経て影響をうけてそこから学んできたことで彼の曲があるのは確か。過去の音楽からしっかり学んでないと作れない曲です。
まとめ
この記事は英語のRhymeについて調べて韻の形式って頭韻、脚韻以外にも色々あるんだよってところからの一考察として書いたものです。日本語韻の理解としてこれが正解だからというわけではなくてこういう見方もあるのかくらいに思ってもらえれば。
伝統芸能、宗教、音楽、言語、文学、あたりで細分化されてしまってる知を集約してこないとこの辺りの本格的研究は難しい感じがしますね。
日本語押韻の研究者っているのかなと調べてたらコンピューターに自動生成させる研究とか出てきたよ。そのうちAIの方がいい歌詞書く時代が来そう・・・。
「いろはにほへと」とか「ひふみ祝詞」とかは日本語の音素一覧表みたいだし、昔の人がやってた日本語フォネミック・アウェアネス(音素認識)かな?
フォニックスだけじゃダメ? フォノロジカル・アウェアネス(Phonological awareness)やフォネミック・アフェアネス(phonemic awareness)とは
とか他言語を学ぶことで気づくことがあってほんとおもしろい。